「災害時の情報公開のあり方」(「原発事故情報公開」を核として)

                              丸尾 哲也

 

〔なぜ合意形成が必要なのか〕

 原発事故による避難者の帰宅が検討されはじめている。しかしながら、仮に帰宅が実現したとしても、将来に渡って本当に安全なのか、人々は不安を抱えながら産業を復興し、その土地に住み続けることになる。

このように、今は仮に良い(良いと思わざるを得ない)としても将来を考えるとどのようなリスクがあるか分からないという問題は別にこれに限った話ではない。もう忘れている人が多いかもしれないが少し前には「環境ホルモン」の話があったし、近年では「地球温暖化」の話題がある。そういう方面じゃなくても「年金」とか「日本の借金」の問題だって同じようなものだ。「まちづくり」も基本的には同じ構造を持っている。

結局、どんな優秀な人間であっても「将来の事は予想できない」、もう少し詳しく言えば、「将来のリスクと、そのリスクに対処するために現時点の行動様式を変えるリスクのどちらを選択するべきか良く分からない」ということに尽きる。だから誰かが処方箋を提示したとしても、直ぐに各方面から批判が出る。ただ、批判をしている人間も本当に自分の事が正しいと思っているわけではない。

残念ながら、このような種類の社会的課題に確実に対処できる社会システムを我々は持ち合わせていない。政治も行政も2030年先の未来を保証できない。現時点のリスクに対応し、なおかつ将来のリスクにも備えよなどという無理難題を要求する向きもあるが、日本の首相が毎年のようにコロコロ変わるのは、そういうスーパーマンを要求しているからではないだろうか。そんな無い物ねだりをしていても始まらないだろう。

我々が「社会的合意形成」の重要性を主張するのは、結局、将来に渡って責任を持ち得るのは自分たち自身でしかないからだ。「まちづくり」のように、それに関わる主体や、地理的な範囲が限定される場合には有効な手段となる。一方で、原発の問題のように高度な専門性が必要で地理的にも分野的にも多様なステークホルダーが存在する問題において本来の意味での「社会的合意形成」を行うことは困難であることも確かである。しかしながら、政府の方針に対し、ネット上でいろいろな意見が交わされることで間接的にせよ方針が少しずつ修正されていく昨今の状況を見ると、より広義の意味での「社会的合意」の仕組みが生まれつつあるのではないかとも考えられるのである。

ただし、現時点では、その利点よりも、多様な意見が交換されることの欠点のほうが大きいとしか考えられない。特に、「社会的合意」の大前提となる相互的な「信頼」の醸成が全くできていないこと、多様な意見が交わされる故にどの情報を信じて良いのか分からなくなってしまっている、という状況が特に問題だろう。そこで、以下に、特に「信頼」という観点において、「災害時の情報公開のあり方」を述べたい。

 

〔災害時の情報公開のあり方(信頼の醸成について)〕

儒教に「仁義礼知信」の五徳という考え方がある。「仁」とは人を思いやる心。「義」とは正義を貫く心。「礼」とは礼を尽くす心。「知」とは知恵を磨く心。で、問題は「信」なんだけれど、人から信頼される事じゃなくて、人を信じる心、なんだそうだ。もちろん、人から信頼される事はとても重要なわけだけど、それに何か特別な徳があるわけでなくて、「仁」とか「義」「礼」「知」とかという徳を持った人が結果的に人に信頼される。

 原発事故の情報を信頼できるできないという世の中の議論が、全くかみ合っていない。原発事故の情報が信頼出来ないのは、その情報が間違っているからではなくて、そこには、人を信頼させる「仁」も「義」も「礼」も「知」も「信」も無いからだ。

 

科学は、信頼できる情報を作りだすのに有効な手段であるが、厳密にはそれは“実験室”の中に限られる。外部ファクターをコントロールできない自然界の中で、しかも未知の事象を相手に、科学の出来ることには限界がある。こういう話を書くと宗教>科学であるかのような主張と誤解されるかもしれないが、そういう話ではない。同じような事は過去にも何回も起きている。数年前なら、環境ホルモンがそうだったし、最近では地球温暖化がそうだろう。8割~9割の事項が科学的に解明されたとしても、未解明な部分によって議論が百出する。分からないものは分からないとするのが科学的に正しい態度だろう。ところが、多くの科学者は、分からない部分に自分の意見を付け加える。おそらくそれは、その人の持つ「義」の部分だと考えられる。

 

 むろん、事件は現場で起きている。SPEEDIの公表が遅れたように不明確だからといって何もしないのは科学的には正しい態度なのかもしれないが、賢い(上記で言えば「知」の徳がある)とはとても言えない。今直ぐに何かをしなければいけない。だから結局は「義」の要素が大きくなる。これは、反原発派の人たちも同様だ。反原発派は、政府発表の情報の矛盾を突くいろいろな情報を出して来るわけだが、そりゃ自然を相手にしているのだから例外や矛盾はあるだろうとしか言えない。結局、情報が正しい正しく無いという論争は、互いの正義を戦わせているだけであり、それは不毛だ。

 

 では何をするべきかということで、自分の正義のみを主張しあうのではなく、別の徳(つまりそれは別の視点という意味だが)をいれてはいかがかというのが、本稿の主張になる。例えば、「仁」の徳に基づき、政府、反政府、原発推進、原発反対、メディア、NPO、市民等、いろいろな立場のステークホルダーが歩み寄って、今本当に困っている人のために正しい解は何かを見出す、のが一番良いだろう。まあ、しかしながら、筆者を含め、人々にこういう仁徳を求めるのは非現実的な話だと思うが。

 となれば、その他の「礼」「知」「信」に基づいた行動をするしかない(「義」はもう十分かも)だろう。これについては、政府に言いたいことは山ほどある。まず、政府は国民を「信」用していない。だから、怒られることを極力嫌う。レベル7の話や、居住不可能の話のように、そうじゃないの?と言われて最初は否定しておきながら「実はそうでした」という話が出てくる。子供のイタズラじゃないんだから、そんな大人の言うことを信じろというほうが無理だろう。いろんな波紋をおそれ黙っているより、分からないことを分からないと言ったほうが数段良い。「礼」も尽くしていない。兎に角、政府の公表する情報はわかりにくい。そもそも中身が良く分からないだけじゃなく、情報の出所が複数あり、それぞれ別の視点で語られているので理解するのは相当に骨だ。こんなのを一般国民に読めというのだろうか。そして「知」もない。「知」とは分からないことを解明しようとする努力だろう。未だかつて無い事象が今もなお進んでいるというのに、放射線測定など細かなデータを取ろうとする努力がまだまだ少ない。反原発派だろうが、彼らの出すデータを無視するのではなく、それが本当はどういう意味を持っているのかちゃんと検討し調べるのが本来あるべき態度のはずだ。

 

 人が「科学」という非人間的なものに頼るのは、結局、自分で責任を負いたくないからだ。「科学」が分かる範囲は何処までで、何処からが自分の判断なのかを明確にする。それが、今後の情報公開に必要な考え方であろう。